どうも、FightingDogです 🙂
自分が持っている技術やせっせと毎日している事に意味があるのか?という話なのですが。
ーギターに置き換えてみますー
あるギタリストA君が毎日毎日、「速弾き」の練習をしていたとします。
毎日、毎日練習しているので、速弾きに関しては、他を圧倒しています。
すると、ある日、友人B君にこんな事をいわれます。
「そんな速弾きばっかしてても意味無いよ」と。
B君は、「曲の中にギターソロはわずか数秒、だからバッキング(伴奏)を練習しなきゃいけないんだ」と言っています。
こういうのきついですよね。
なんか否定された気がしますよね。
人に言われなくても、自分自身で感じてしまっている、なんてこともあるかもしれません。
ー果たして、このA君のしている速弾き練習(持っている技術)は本当に意味(価値)がないのでしょうか?ー
B君の言い分も分からなくもないです。
というか正論でしょうね。
ということで、このままいけば、A君のしている事は価値のないことになってしまいます。
しかし、本当にそうでしょうか?
価値のある場所に行けばいい
確かに、B君の考える場所…
つまり曲に必要なものは?という点(場所)で考えると、A君のしている事には価値がなくなるのかもしれない。
しかし、場所を変えて、その速弾きを欲している人達の中に入ったら??
そこには需要があるのですよ。
つまり、A君の技術は求められるのです。
つまり価値があるのですね。
大事なのは、どの場所でやるか?ではないですかね。
環境を見極める必要があるという事です。
そして、落ち込むのはまだ早いという事です。
逆に言えば、バッキングが凄くうまくても、速弾きを習得したい人達の前では、それこそが意味がないのです。
なぜなら、その人達が手に入れたいのはバッキングの技術ではなく、速弾きなのですから。
いくら素晴しい親子丼を作る腕前を持っていても、親子丼が食べられない人の前では意味がないですね。
(例が唐突ですね笑)
つまり、ものは考えようで。
人に言われてすぐに考えを改めてしまうのは早いのではないかなぁ?と思うわけです。
自分が既に持っているものをどう使うのか?ではないでしょうか。
きっと無価値ではないと思うのですよ。
視点を変えてみるといいますか。
自分が既に持っているもの(技術)を必要としてる人の前にいけば、それは途端に意味が出てくるものになるのではないですかね?
なんて事を思っています。
ではでは 🙂
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